〜西田幾多郎の詩〜


吾しなば 故郷の山に 埋もれて
昔語りし 友を夢みむ
「我々の生命と考えられるものは、深い噴火口の底から吹き出される大なる生命の焔という如きものでなければならぬ。詩とか歌とかいうものはかかる生命の表現ということが出来る、かかる焔の光ということができる。物質面に突き当たった生命の飛躍が千状万態を呈する如く、生命には無限の表現がなければならない。熹微たる暁の光も清く美しい、天を焦がす夕焼けも荘厳だ。」
(『アララギ』二十五周年特別記念号、昭和八年一月 より)

これは西田幾多郎が「短歌について」と題して短歌雑誌『アララギ』に寄せた文章の一節です。ここで西田の言う「大いなる生命」とは、個々人の生命に留まるものではなく、世界そのものの営みを指したものと解釈するならば、個々人の生命とは、世界そのものの持つ無限の広がりのひとつの発露と考えられます。
また、次のように語っています。

「表現とは自己が自己の姿を見ることである。十七字の俳句、三十一字の短歌も物自身の有つ真の生命の表現に他ならない。我々の見る所のものは物自身の形ではない、物の概念に過ぎない、詩において物は物自身の姿を見るのである。…」
(随筆「島木赤彦君」より)

西田にとっての詩は、単に事象を表現するだけではなく、そこから生まれいづる感動をも詠みこんだ、まさに「生命」を表現したものであり、「生命の焔」を煌めかせる手段でした。

西田は、「哲学の動機は人生の悲哀でなければならない」と語っています。自分自身の悲哀の人生を見つめ、それをもたらす悲哀に満ちた世界を乗り越え読み解きながら思索を深めていく。それが西田にとっての哲学でした。そのことを鑑みるならば、西田にとっての「大いなる生命」とは「悲哀に満ちた世界」にほかならず、詩作とはすなわち悲哀の超克のひとつの方法であったのでしょう。

西田の人生にとってもっともつらい時期、それは京都帝国大学で教鞭をとっていた1920年前後(50歳前後)の頃でした。長男の死、娘たちの相次いでの発病がありました。また、その間、夫人は脳溢血で倒れ、寝たきりの生活を強いられていました。そんな時期に西田が詠んだ短歌が残っています。

愛宕山 入る日の如く あかあかと
燃やしつくさん 残れる命

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