【第四高等中学校】
西田幾多郎は石川県師範学校を中退後、石川県専門学校へと進むことになります。
石川県専門学校は北陸では帝国大学への唯一の進学校であり、授業が英語でなされていたとも言われるほどの名門校でした。
西田が入学して1年ほどたった後、「第四高等中学校」と改称され、政府の管理する学校となりました。このことについて西田は「第四高等中学となってから校風が一変した。つまり一地方の家族的な学校から天下の学校となったのである。 〜中略〜 師弟の間に親しみのあった暖な学校から、忽ち規則づくめな武断的な学校に変じた」(「山本晁水君の思出」より)と後年語っています。
江戸時代の学者新井白石が「天下の書府」と評したように、加賀(石川県)は学問が非常に盛んな地域性がありました。石川県専門学校の学生は旧加賀藩の師弟が多く、古くから藩が一体となって作り上げてきた学問に対する情熱が色濃く残っていました。また、西田の言葉を借りれば「全体が一家族というような温味のある学校」でした。
それが、「規則づくめな武断的な学校」に変わってしまったのです。
西田はその校風に反発しました。友人たちと語らい、教師に対して反抗をし行状点不足で落第、ついには中途退学することになります。
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